要旨
1.稲作や鉄器、今の日本語につながる言葉などは揚子江流域からもたらされた。
2. 倭国大乱は先に渡来した新羅系指導者の国々と後から渡来した百済系住民との戦いだ。
3. 新羅系指導者たちの国々はヒミコを擁立して、纏向の地に都をおく邪馬台国を造り、倭国大乱は終わった。邪馬台国の勢力は最盛期には東海地方から北九州にまで及ぶ。
4. 天皇家のルーツは中国の東北地方に住んでいた扶余族にある。
5. 戦乱を逃れた扶余族の一部は海を渡り日向に本拠地を置き、隼人や熊襲を従えて、狗奴国を造った。 彼らは当時九州北部にまで勢力を伸ばしていた邪馬台国と争った。
6. 四世紀初め狗奴国の大王である 神武(崇神)は東征して邪馬台国を滅ぼした。
7. オオクニヌシは邪馬台国最後の大王であり、神武との戦いに敗れ出雲の地に追放された。
8. オオクニヌシの霊は出雲大社に封じ込められている。
祭祀長を務める千家家はそれを監視するために神武が建てた新しい国から派遣された。
9. 邪馬台国と後の天皇につながる大君を首長とする国との直接的なつながりはない。
1.紀元前4000年前ころ、揚子江流域では鉄器が使用され大規模な稲作が行われていた。
豚が飼育され、漆器や陶器が作られていた。
この文化を担う人々はその後北方の黄河流域からから南下してきた人々に押し出され紀元前3000年ころ、西方のアッサム・雲南地方に移住しさらにそこから、インドのタミール地方やインドシナ半島などに移っていった。
彼らの一部は紀元前1000年頃、揚子江流域から稲作や、鉄器、甕棺、漆器、言葉などを携えて、北九州や南朝鮮の地に移住してきた。
彼らの文化はその後の日本文化の骨格を形作る。(弥生時代の始まり)
大野晋は、南インドのタミール地方の言葉や風俗習慣について詳細な調査研究をし、タミール語の語彙や文法構造のほうが、韓国語や他の言語などの語彙や文法構造よりも日本語に近いと述べている。
またタミール地方の風習によく似た風習が日本の東北地方に今も、かなり残されているとも述べている。
日本語とタミール語の共通の祖先は黄河流域で話されていた言語であると考えている。
2. 紀元前300年頃、春秋戦国の戦乱を避け、扶余族の一部は中国東北部の故地を離れ、後の高句麗、馬韓(後の百済)の地を経て、弁韓(後の伽耶)の地に落ち着いた。
3.同じ頃、秦の国を離れた徐福の一行や戦乱を逃れた秦の人々は、辰韓の地(後の新羅)に定住した。
秦の人々の後裔はさらに、仙人の住む蓬莱山にあるという不老不死の薬を求めて、海を越え出雲、吉備、大和、北陸、長野、関東などの地に移住した。
彼らは先住者である弥生人たちと交わり、銅鐸の祭祀を取りおこなう文化圏を築いた。
4.前漢の末、飢饉や政治の混乱により、大量の流浪の民が新たに生じた。
この流浪の民に押され、伽耶の地に定住していた扶余族の一部は、海を渡り宗像の地を経て遠賀川流域に移住した。
さらに分かれて、田川、甘木、日田、阿蘇、高千穂を経て西都原の地に移ったものがいた。
後の天皇家のルーツはこの扶余族にある。
天皇家のルーツを日本国内に求めるのは非常に難しい。
扶余族の「天」の思想は後に天孫降臨神話の中に取り入れられる。
遊牧民における末子相続の風習が、日本でも神話の時代から応神天皇の時代まで続いたと考える人もいる。
他にも大小の集団が、住みよい地を求めて倭国に渡り、瀬戸内海沿岸や日本海沿岸を東へ移動していった。(第一次高地性集落の時代)
5. 後漢末にも大小の集団が、住みよい地を求めて朝鮮半島から倭国に渡り、瀬戸内海沿岸や日本海沿岸を略奪と戦闘を繰り返しながら東へ移動していった。(倭国大乱と第二次高地性集落の時代)
「倭国大乱」は基本的には「倭国に先に渡来していた主に秦系(新羅系)の人々(出雲族)を指導者とする国々と後に渡来してくる扶余系(百済系)の人々との戦い」であった。
神話に登場するスサノヲの出身地は新羅であり、新羅系の人々のすぐれた指導者であったと考える人は多い。
6.この戦乱の中で吉備の国を中心とする諸国の首長らは、盟主としてヒミコを擁立し、大和の纏向の地を都とする連合国、邪馬台国を建国した。かくして倭国大乱は終わった。
邪馬台国を形作る国々は東海地方から北九州まで広がった。
彼らは銅鐸に代わって鏡を祭器とし、墳墓として前方後円墳を築いた。
大陸から相当数の移民が時間をかけて倭国の各地に流入し、この労働力が巨大な前方後円墳を造るのを可能にした。
銅鐸は破棄され、銅鐸の祭りは終わった。
7.248年、皆既日食が起こり、卑弥呼は老齢であることと相まって、霊力が衰えたとみなされ、殺された。
魏志倭人伝では「以死」という表現が用いられている。この言葉は尋常ではない異常な死をした場合に用いられる言葉だという。
その死後、倭国は大いに乱れたが、卑弥呼と同じく鬼道にすぐれた巫女であるトヨを擁立し、倭国の争乱は収まった。
8.ところで日向に移住した扶余族は、その地に住んでいた隼人を支配し、次に熊襲を従えて狗奴国を作った。
さらにその当時北九州の地まで勢力を広げていた邪馬台国と争った。
邪馬台国の女王卑弥呼は魏に調停を求めた。
9. 邪馬台国はトヨの死後次第に勢力が衰えていく。
狗奴国の優れた指導者であった神武はこの機に隼人などの武人も引き連れて遠征を始める。
記紀神話では神武の祖先が高千穂に天下ったのは、まつろわぬものどもを征服するためであり、神武の東征は必然であり、運命ずけられたものであると記されている。
日向の地を出て北上し、宇佐の地を経て、昔彼らの祖先が通過し、今も一族が居住する宗像の地にしばらくとどまり力を蓄えた。
10. 神武の勢力は宗像の地から東に向かい、安芸や吉備の地に滞在し、在地勢力と同盟を結んだ。
吉備の地では、特殊器台と前方後円墳の祭祀を取り入れた。
彼らはさらに東へ進み、浪速の地で大和へ入るのを阻まれた。
そこで南下し、紀ノ川を遡り、吉野、宇陀を経て背後から大和の地に入った。
神武の勢力はオオクニヌシを首長とする邪馬台国との戦いに勝ち、オオクニヌシや邪馬台国の指導者などの出雲族を彼らの故地である出雲の地に追放した。
記紀神話にはオオクニヌシの天照大神への国譲り神話として記載されている。
纏向にあった邪馬台国の都は放棄された。(第三次高地性集落の時代)
オオクニヌシに代わって大王の位に就いたのは神武(=崇神)であり、鏡と玉と剣を大王の位を継承する者の印としていた。
11. 大和から出雲へオオクニヌシを追放した神武は、オオクニヌシの霊を封じ込め祟りを避けるために、 出雲の地に出雲大社を建造してそこにオオクニヌシを祀ることにした。
12. 出雲大社の主祭神であるオオクニヌシ(正しくは大国主大神)の木像と参拝者との位置関係について。
出雲大社の本殿は南向きであり内部は「田」の字形に仕切られている。
主祭神である大国主大神の木像は「田」の字形の本殿の右上のマス目、方角でいえば本殿の東北の一郭に西向きに、つまり新羅の方向を向いて鎮座している。
大国主大神が西向きに座っているすぐ目の前、本殿の西北の一郭には、天孫族系の神々が南向きに、つまり参拝者のほうを向いて座っている。(「田」の字でいえば左上のマス目に相当する)
そのため、われわれが参拝するときには、天孫族の神々とは直接対面して参拝することができるが、大国主大神とは直接対面できず、その横顔を拝することになる。
といっても、大国主大神が西向きに鎮座している一郭の南側部分は木の板が張られていて、参拝者の目に触れないようになっている。
そのため参拝者は大国主大神の横顔や全身を直接目にすることはできない。
全国のほとんどすべての神社では神社の中央に御神体や主祭神が祀られていて、参拝者の方を向いている。
参拝者の眼には触れないにしても御神体は間違いなく参拝者の方を向いている。
しかも神社の正面中央部は神様の通り道として開けられている。
しかし出雲大社はそのような造りになっていない。
本殿正面の中央部には柱が立っていて、神様の出入りを拒むかのようになっている。
本殿正面の中央部に柱が立っているは、出雲大社が田の字形の古い高床式建造物の構造そのものを受け継いでいるからだという考え方がある。
しかし、そのことは大国主大神が参拝者の方を向いていないことの理由にはならない。
私達が出雲大社に参拝して、大国主大神にお願いするとき、その願いは、直接には天孫族の神々が聞き届け、大国主大神は天孫族の神々から間接的にお聞ききになる、ということになっているのだろう。
それに大国主大神が外出しようにも目の前の天孫族の神々が邪魔になって自由に外出できない。
これはいかにも異様な光景であり、「オオクニヌシの霊が天孫族の神々に封じ込められ、監視されている」証拠だという趣旨のことを述べている人がいる。
私もこの意見に賛同する。
出雲大社を参拝する人はだれも木の板で隠された大国主大神の姿から、この異様な雰囲気を感じ取ることができる。
大国主大神が座敷牢に閉じ込められているのを連想する。
13. 大国主大神は西向きに鎮座されていて、その視線の先には、本殿を取り囲む塀があり、その外側に大国主大神専用の実にお粗末な賽銭箱が置かれ屋根が掛けられて拝礼所の形を整えている。
(これは参拝者がここから参拝し、お賽銭を投げ入れるのでやむを得ず平成になってから賽銭箱を設置し屋根を掛けて拝礼所の形にしたものらしい。賽銭箱は設置してあるものの正式な拝礼所ではなく、正式なものにするつもりもないらしい。それにしてもここから拝礼するにしても大国主大神と参拝者の間を遮る天孫族の神々が邪魔になる。)
ここから参拝すると直接大国主大神と対面して、お願いすることができる。
本殿の南側正面から天孫系の神様にお願いし、その取次により大国主大神に間接的にお願いをするよりは、西側側面から直接大国主大神にお願いする方が御利益ははるかに大きい、と言われている。
当然と言えば当然のことだが、しかし、この西側側面からお祈りをする人は少ない。
大社の主祭神は大国主大神であるので、大国主大神の真正面、すなわち本殿の西側にある大国主大神専用の(現在の粗末な拝礼所を建て替えて)賽銭箱を造り立派な屋根を掛けて拝礼所の形にするべきだ。
それが大国主大神に対する礼儀だし、大国主大神の願いに叶うものだと考える。
出雲大社の公式の全体図の中にはお粗末な拝礼所は描かれていない。
それにしても、神社に賽銭箱が二か所もあるという神社は日本国中探しても出雲大社だけだろう。
14. 代々出雲大社の祭祀長を務める出雲国造、『千家』家の始祖は天照大神の第二子『アメノホヒノミコト』であり、オオクニヌシの霊や出雲族を監視するためにヤマト政権から派遣された。
後に大化年間(645-650)以後、諸国の国造は国司に取って代わられるが出雲国造と紀伊国造は残された。
しかし行政権はなく祭祀だけを取り扱うことになった。
出雲国造と紀伊国造がこのように特別な扱いを受けるのにはそれだけの理由がると思われる。
昔、新しく出雲国造になる人は、代替わりしたことを天皇に奏上しなくてはならないことになっていた。
このことは出雲族の天皇に対する服属儀礼だとみなす人がいる。
15. 記紀には天皇家の始祖と言われる崇神(=神武)から応神までの天皇はわずか五代しか記されていない。
したがって各大王の在位期間が当時平均して十四、五年にもならないことを考えると、崇神から応神までの期間は、長くても七十五年ほどにしかならない。
応神は四世紀末の大王だから、崇神(=神武)が即位した時期はせいぜい三世紀末か四世紀初頭までにしかさかのぼれない。
ヒミコの死から五十年以上も後のことになる。
ヒミコをヤマトトトビモモソヒメにあてはめて考える考え方がある。
しかしヤマトトトビモモソヒメは神武(=崇神)と同じ頃か少し前の人なので、そう考えるのは相当難しい。
16. 邪馬台国と後の天皇につながる大王を首長とする国との間には直接的なつながりはないと考えるのが順当だ。
しかし箸墓がヒミコかトヨの墓であるのは間違いない。
ヒミコの時代に始まった前方後円墳の造営と祭祀は、後の天皇につながる大王達に引き継がれてゆくことになる。
このことによって、天孫族は自分たちが邪馬台国の正統な後継者であることを主張した。
天孫族は記紀神話の作成時にヒミコをアマテラスに重ね合わせることで自分たちが邪馬台国の正当な後継者であることを印象付けようとした。
記紀神話では神武東征の出発地が日向の地になっているが、それはなぜなのか説得力のある説明が今までなされていない。
最近の多くの発掘でも卑弥呼の時代と神武(=崇神)の時代のつながりを埋めることはできないでいる。
私たちは記紀神話の語る言葉に率直に耳を傾け、それなりの敬意を払うべきだ。
平成22年(2010年)8月。(令和6年(2024年)2月追加) 天邪鬼